千里行って、千里帰る…特攻隊の彼らが向かう片道の旅路【埼玉ブルース第34回】

埼玉ブルース

誰が言ったか知らないが、訪ねてみれば確かに感じる魅力のご当地をさすらう「埼玉ブルース」。

”折角だから埼玉県の隠れた素顔も見てみたい”。そんな希求を満たすべく伺ったのは、
我が県でも有数の史跡を誇る桶川市。

太古への郷愁を誘う遺跡や古墳をはじめ、多くの旅人を受け入れた中山道の
桶川宿などが知名度を集める一方で、今日の埼玉県のみならず、日本を語る上で
欠かせない近代文化遺産があると聞き、

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先週からお邪魔している旧桶川飛行学校より、今回も引き続きお送り致します。

荒川を望む高台に施設を切り拓き、その河畔に滑走路を擁した申し分のない立地。
その正式名称を旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場と謳うこの場所で、桶川教育隊と
呼ばれる少年飛行兵や学徒動員によって集められた特別操縦見習士官達は、
寝食を共にしながら勉学に励みました。

彼らは約半年に亘って基本操縦などの課程を修了すると、熊谷の本校などで
さらに高度な訓練を積んでから国内外に出て、いよいよ実践部隊に配属されます。

多くの危険を伴う任務とは言え、当初それは決して戦死を前提とした
任務ではなかったはずでした。

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しかし、そんな風向きも戦況が厳しくなるにつれて変わって行き、およそ一年後に
終戦を控えた1944年(昭和19年)9月末には、もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし
との結論に達します。

大本営陸軍部の決定を受けた翌年2月に旧桶川飛行学校は閉鎖され、
以降は決死の攻撃を以って報国とする陸軍特別攻撃隊――通称”特攻”の
訓練基地として、再びその歴史を刻むこととなりました。

1945年(昭和20年)には第79振武特別攻撃隊12名が知覧基地に向け出発。
その粉骨も虚しく、

すぐ数ヵ月後に、大日本帝国は敗戦を迎えます。

こちらはGHQ接収後に、その上官らの待機所となっていたというかつての守衛所。
壁板は剥がれ落ち、窓ガラスは割れながらも、当時の風情を今に伝えます。

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長らく攻撃の枢要を担っていたであろう爆薬庫は、平和を迎えて抜け殻となった
今なお忘れ得ぬ緊迫感を放ち続けているかのよう。

すぐ裏手に荒川の急流を拝しながら、この四方を頑なに覆うコンクリートを鑑みるに付け、
ここに安置されていた火気の威力こそが一方で泣きどころであった事実が窺い知れます。

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こちらは下士官室を有する兵舎の裏手側。だいぶ年季が入っているように見える景観は、
反せばそれだけ長い間、そこに住む人の生き甲斐となっていたと言うことなのでしょうか。

この擦りガラスも戸板も、現代では考えられないほどに脆く簡素、。
それでも先の大震災から遡って、多くの天災を乗り越えて来ました。
その陰に、地元をはじめとする多くの尽力があったことは言うまでもありません。

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陸軍特別操縦見習士官 写真報道;『学鷲』。

「この『学鷲』に使用された写真はすべて、ここ桶川飛行学校で撮影されたものです」。
そう教えてくださったのは、「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」の
事務局長を務める鈴木さん。こちらの表紙のモデルは、特操一期生として
在学していた能登川見習士官だそう。

前途洋々である青少年の姿を捉えた、この機関誌によって志願兵が募られ、
多くの命が失われたというのは、大変皮肉な結果だと言わざるを得ません。

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当時の時流を伝えるこうした写真のほかに、個人の寄贈による貴重な品々も。

ひたすらに勝利だけを信じ、常に死と隣り合わせにあった略帽。
これを被っていたかつての青少年は、一体どんな気持ちで手離すに至ったのでしょうか。

ここから命を賭して飛び立った特攻隊員達が残した遺書や辞世の句なども丁寧に展示され、
その深淵にわずかながら触れることが出来ます。

実は、この建物内に残されていた文書や書き付けは、GHQによる接収の際に、例外なく
上層部の命によって処分されたそう。その危機を察知した有志達によって一部は持ち出され、
現在は難を逃れた日記や流失していた記録なども方々から集められ、
かくて読むことができるのです。

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文字通りの武運長久を祈り、その一針一針を千人によって縫い上げられた千人針と
呼ばれる木綿のさらし。これを身に着けていると敵の弾が当たらないと言われ、
ここに描かれている虎の「千里行って、千里帰る」という故事にちなんで、
お守りとされました。

しかし、特攻隊の彼らが向かう片道の旅路には、決して”帰る”と言うことがないのです。

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こちらが95式1型練習機こと、通称赤とんぼ。その名のとおりに、練習機として
99式高等練習機と並んで滑走路を舞い上がり、時には宙返りや錐揉みなどの
特殊飛行の様子までが地元の住民によってつぶさに目撃されています。

その後、特攻隊として知られる第79振武隊は、実践機に見立てた塗装を件の
99式高等練習機に施されて出撃。最新鋭の設備を誇った敵機に比して、
馬力も性能も劣っていましたが、厳しい戦況をしては苦肉の策でした。

「同じく第94振武隊などは赤とんぼで飛び立ったものの、
こちらは出撃前に終戦を迎えました」とは、前述の鈴木事務局長。

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今回の取材で、「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」の鈴木代表と並んで、
いろいろなお話を聞かせてくださった天沼さんも同会を支えるお一人。
この界隈で生まれ育ち、先述の赤とんぼによる演習や特攻機の出撃、その後に
迎えた敗戦やそこからの復興などを間近で見て来られました。

数ある中でも印象的なエピソードとして、件のGHQによる接収の際に
駐在していたアメリカ兵からチョコレートをもらったという
『はだしのげん』の一場面に通じるような思い出も。

「はじめてチューイン・ガムをもらって食べた時には、いつまでも口の中から
消えないからビックリしちゃってね。最初は面食らったものだったけど、
よく遊んでもらったりしたんだよ」と懐かしそうに思い出されるその表情は、
なんとも晴れやかな笑顔でした。

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そうして戦後を迎えると、かつての飛行学校は、旧満州からの引揚者や
生活困窮者を受け入れる桶川市引揚寮へと、その姿を変えました。
周辺の地名を愛称にとって「若宮寮」と呼ばれ、地元の方々から
親しまれたことは言うまでもありません。

当時の面影を知る皆さんの活動は、非営利によるものながら、
実に並々ならぬ熱意にあふれています。この手書きの看板の製作のみ
ならず、様々に行われる語り部としての取り組みを通して、週末ごとに
100人前後の訪問があるとのこと。

この精力的な活動によって、いつまでもお元気でいて頂きたいものです。

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こちらが現存する棟群のひとつである車庫。

その入り口にある大きな鎮魂之碑をして、ここから旅立ったまま戻ることなく
特攻隊として儚く死した彼らへの哀悼の意が湧き立つかのようです。
その建物内に立ち入ろうとする誰しもが、自然と手を合わせずにはいられない
言い表し難い荘厳さを放っています。

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全国各地から集められた若者達は、一様に沖縄の海に果てて行きました。
既に家庭を持っていた方は、その出撃が決まった際に、自分を失った後の
家族に思い馳せて、静かに咽び泣いたといいます。

敗戦の動乱が過ぎ、ここでの暮らし向きを残された遺族に伝えようとしたものの、
「そっとしておいて欲しい」と断られたと語るのは、知覧に向かう特攻機に同乗し、
今なお同会の活動を続ける元整備士の柳井さん。

戦火が消えても、人々の心に深く刻まれた心の傷が消えることはないのかも知れません。

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様々な戦争の爪痕を目の当たりにした後で、ふと外へ出てみると、雲ひとつない
青空を泰然と飛行機が翔けて行くのが見えました。

かつて陸軍特攻振武隊を送り出した滑走路は、今はスカイダイビング用の
軽飛行機が走っているとのこと。現在でも操縦訓練は行われているものの、
それは無論のこと爆弾を落とすための演習ではないのです。

「あの虚空の果てを目指しながら、その先に見たものは一体何だったの?」、
いつの間にか独り言ちていた疑問の答えを知る術はありません。誰にも知られず
風塵に散る問い掛けを、すぐ側の軒下だけが優しく見守ってくれていました。

【今回取材させて頂いた旧桶川飛行学校】

※公開は土・日・祝日の10:00~16:00のみ

JR桶川駅西口から市内循環バス「東西循環」または「西循環」で「三ツ木」下車後徒歩10分、

JR川越駅から桶川駅西口(山ヶ谷戸経由)で「柏原」下車後すぐ

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