「なぜここへ戦後にベッドを? 一体誰がなんのために?」
そもそも飛行学生さんたちの生活は、巷に聞く「良質な睡眠」とは、
およそ無縁だったよう。毎朝6時前には起床して、夕方6時過ぎまで
計12時間みっちり詰め込まれた座学と実技に勤しむため、休める時間は
ほとんどなかったとも伝わっています。実際の彼らは、等間隔に並べられた
寝台で寝起きをしていたそう。
既に大昔の産物となっているプロレタリア文学や現在のブラック企業にさえも通じる、
この過酷っぷり。どんなに寝ても足りないくらいの、まだ年端も行かない
青少年達が、ここで夢を見ることなんてあったのでしょうか。
よく細部にまで目を凝らして見るに付け、つくづく感じ入らされるのは、
ここが学校だったのだと言うこと。
「むしろ授業中の方が、かえってぐっすり眠れる」なんて経験は誰しにも
あることですが、ここで重責を肩に学んだ彼らには、そんな甘えが許されることも
なかったのだと思うと、なんだか身に詰まされるものがあります。
この旧桶川飛行学校では、志願によって募った召集下士官や学徒動員で
集められた特別操縦見習士官などの若者達が、半年間にわたって基礎課程を
学びました。1945年(昭和20年)2月に閉校を迎えるまでに、
航空兵として約1,600名ほどの卒業者を輩出しています。
その後、熊谷の本校や国内外での高度の訓練を修了して、実践機操縦の任務に就き、
多くの犠牲を伴いながらも生き残った人々は、晴れて終戦を迎えます。
その時々で増減はあるものの、常時40名から多い時では90名が在学して、
ここで寝食を共にしていたそう。
既に焼失した家屋もあるとはいえ、現代の住宅状況からは考えられない手狭さ。
そんな環境でも、休日には大宮や浦和に出掛けて息抜きを楽しんだと言うから、
その余暇の慰めとなった娯楽は、今とそう変わらなかったようです。
しかしながら、要所に垣間見える愛着を持った暮らし向き。
実は、この旧桶川飛行学校は、敗戦から長らく、旧満州からの引揚者や被災民の
方々が暮らしていたという居住施設としての一面も持ち合わせているのです。
その”長らく”は期間にして、なんと約62年!
平成19年に最後の住民が転出するまでの間に、ここでメールを打ったり、
その文面の中で「今日のランチはワッフルにしようよ」なんて当時の敵性語群を
使われた可能性もあったりして。
前編で紹介したベッドは、最近まで住民が暮らしていたことの
れっきとした証というわけです。
それにしても“平成19年”って、つい最近にも程があるではないですか!
だからなのでしょうか、どこかモダンな調度品も、なかには残されていたりします。
現在では土・日・祝日の施設の公開に合わせて、前述の
「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」の皆さんが常駐していることも
あって、いまだに生活感が横たわっています。
ちなみに、大変下世話ながら、最後の居住者の方について訊ねてはみたものの、
当然ながら詳細について教えて頂くことはできませんでした。
しかし、ここに住んでいた当時のお家賃は数千円と言う破格のお値段(!)
だったそう。こんな近代文化遺産に住みながら節約もできるという、
まさに一挙両得な物件だったようです。
今日では全国で唯一となったこの旧飛行学校が存続しているのは、
行政や地元の方々の努力も然ることながら、こうした住民の方の存在が大きい
ことは否めません。
ここに息衝くどれもが戦中当時の状況を今日に伝える貴重な財産。
先の大震災でも残った事実を踏まえて、
これからも大切に守り、継承していって頂きたいと思います。
【今回取材させて頂いた旧桶川飛行学校】
※公開は土・日・祝日の10:00~16:00のみ
JR桶川駅西口から市内循環バス「東西循環」または「西循環」で「三ツ木」下車後徒歩10分、
JR川越駅から桶川駅西口(山ヶ谷戸経由)で「柏原」下車後すぐ
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