誰が言ったか知らないが、訪ねてみれば確かに感じる魅力のご当地をさすらう「埼玉ブルース」。
我らが埼玉県に悠久の歴史はあれど、その息吹きに触れられる機会は、なかなか乏しいもの。これまで珍グルメやゆる名所などの朗らかすぎる横顔を眺め続けて来たけれど、折角なら埼玉のちょっと硬派な素顔も見てみたい!
そんなヨコシマな思いを抱きつつ向かったのは、こちらの旧桶川飛行学校。
先の大戦に先駆けて開設された、かつては飛行訓練場だった場所で、ここから
目と鼻の先を流れる荒川の河川敷には滑走路まで有していたとのこと。
それもそのはず、その正式名称は旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場と言って、
以前は陸軍の管轄地でした。そうした名残りを伝える、こんな立て札も。
こうやって悠長にカメラなんて構えちゃっていますが、「もし世が世なら」と
考えるだけで、思わず背筋が凍ります。そんな時代が例外なく、
この埼玉県にもあったんですね。
とは言え、その開校の際には、あたかもジャングルのようだった山林を切りひらいたとのこと。
周辺の住宅に反して、ところどころに垣間見えるほぼ手付かずの
自然をして、その趣きが伺えます。
そもそも、この川田谷は、諏訪野遺跡や熊野神社古墳をはじめ、現在では
桶川I.C.としても知られる牧野氏陣屋跡など、その道の愛好家に
とってはたまらない歴史的聖地。
日本最大の川幅を誇る荒川沿い上流の高台へ向かうゆるい坂道を登って行くと、
歩みを進めたその先に……おお、だんだんと見えて来ました!
まっすぐに続くアスファルトの道を歩いた先で迎えてくれたのは、
昔情緒を今に伝える木造りの学舎。
その質実なたたずまいは、まさに古き良き木造りの日本家屋そのものです。
まるで映画セットのようだと目を見張ってしまうものの、こちらの開校が1937年
(昭和12年)で、ゆうに80年弱を隔てていると考えれば、
立派な歴史的遺産なのだから無理もないのかも。
この分教場が稼動していた時分には、講堂や操縦訓練場などを含む、およそ
10棟以上の建物があったと伝わる施設。しかし、こうした経年による相次ぐ変化で、
現存しているのは弾薬庫を数えても、わずかに5棟のみ。
以前は、全国各地に点在していた飛行学校やその分教場。工場や校舎として
転用された後に、主に老朽化などの原因から取り壊されているため、
こちらが国内に現存する唯一の飛行学校跡なのだとか。
その肝とも言うべき、「兵舎入口」と記された門戸をくぐった内側は、
なんだか時代を遡って来ちゃったかのような予想だにしないスケール感がお出迎え。
今ではとんと見なくなった、静謐な明暗をたたえる和住宅の魅力が剥き出しです。
”剥き出し”とは言いながら、この写真でもお分かりのように、窓にも
工夫が凝らされているなど、かなりしっかりした構造のよう。
流石に戸板や床などは古めかしく、はっきりと年季が入っていることが窺い知れます。
とはいえ、清潔感が損なわれていないのは、ここで暮らしていた学生さんや
こちらを管理していらっしゃる「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」の
皆さんによるご尽力の賜物に相違ありません。
さらに室内へ入って行くと、まず目に付くのは、当時の面影を残す身の回りの品々。
今ではめっきり見る機会の少なくなった裸電球ですが、こんな前時代の遺物でさえも、
ここではなんだか新しく見えて来るから不思議です。
当然ながら、パソコンもスマフォもない時代。さぞかし不便だったで
あろう青春期に、彼らはこの鈍い灯りの下で一体どんな思いに耽り、互いに
切磋琢磨し合う者同士で、何を語らったのでしょうか。
どこか当時の暮らし向きを匂わせるベッド。戦争に関する施設やその跡地を
国内外に数多くあるものの、そんな中でも断トツの生活感を匂わせます。
とはいえ、こちらは、実は戦後に持ち込まれたものなのだとか。
えっ? ということは残った飛行学生さんたちが使ったもの?
でも、この飛行学校は敗戦の年に閉校になったはずじゃあ……?
「なぜここへ戦後にベッドを? 一体誰が何のために?」
→その疑問の答えは、後編で明らかに!
【今回取材させて頂いた旧桶川飛行学校】
※公開は土・日・祝日の10:00~16:00のみ
JR桶川駅西口から市内循環バス「東西循環」または「西循環」で「三ツ木」下車後徒歩10分、
JR川越駅から桶川駅西口(山ヶ谷戸経由)で「柏原」下車後すぐ
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